松永久秀と下剋上−室町の身分秩序を覆す(感想)

 室町時代において、社会的に身分の低い者が身分の上位の者を実力で倒す下剋上が起こりました。

 応仁の乱によって将軍の権威は失墜し、その無力が暴露するに及んで、守護大名の勃興と荘園制の崩壊を招き、実力がすべてを決定する時代が現出したのです。

 ”松永久秀下剋上−室町の身分秩序を覆す”(2018年6月 平凡社刊 天野 忠幸著)を読みました。

 室町時代初めに畿内を支配し室町幕府との折衝などで活躍し権勢を振るった松永久秀について、最新の研究成果から武家社会の家格や身分秩序に挑む改革者の側面を紹介しています。

 下剋上の結果、将軍は管領に、守護は守護代に取って代られ、農民は一揆をもって支配階級に反抗するようになりました。

 足利将軍が管領細川氏に、細川氏が家臣三好氏に、三好氏が家臣松永氏にそれぞれ権力を奪われ、松永久秀が将軍足利義輝を襲って自殺させました。

 松永久秀は戦国時代の武将で大和国戦国大名であり、官位を合わせた松永弾正の名で知られています。

 三好長慶に仕えて頭角を現し、将軍から主君と同等の待遇を受けるなど権勢を振るいました。

 天野忠幸さんは、1976年兵庫県生まれ、大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程修了、博士(文学)で、専門は日本中世史です。

 滋賀県立大学大阪市立大学滋賀短期大学関西大学奈良県立医科大学の非常勤講師を務め、2016年から天理大学文学部歴史文化学科歴史学専攻准教授となり今日に至っています。

 松永久秀は1508年生まれで、生い立ちについては不明な点が多く、山城国西岡の商人説、阿波国市場の武士説、摂津国五百住の百姓説など諸説があります。

 著者は、妙福寺の伝承の信憑性から、摂津国五百住村に住む土豪であったとの説に拠っています。

 久秀は32歳頃に細川晴元の被官・三好長慶の書記として仕えたとされています。

 やがて、合戦でも能力を発揮するようになりました。

 1540年に、三好長慶連歌田を円福寺、西蓮寺、東禅坊の各連衆に寄進する内容の書状に、久秀の名が見られるのが初見です。

 1542年には、三好勢の指揮官とし出陣した記録が見られます。

 久秀は弾正忠、弾正少弼、山城守、霜台、道意とも言い、戦国時代の下剋上の代表として最もよく知られた戦国武将です。

 小説やドラマでは、主家の三好氏や、将軍の足利義輝を暗殺し、東大寺の大仏を焼き払うなど、常人ではできないことを、一人で三つもしたことで恐れられたとされています。

 さらに、織田信長に三度も歯向かいましたが、二度までも許されたとされています。

 その最期は、1577年に信貴山城の天主で信長が望んだ平蜘蛛の茶釜を道連れに自害するなど、強烈な個性の持ち主として描かれています。

 こうした多くの逸話から、久秀は忠誠心のかけらもない謀叛人、神仏を恐れぬ稀代の悪人というマイナスイメージがあります。

 一方、実力主義の果断な名将、築城の名手、名物茶器に命を懸けた茶人というプラスイメージもあって、戦国乱世を象徴する人物として魅力を放ってきました。

 ”信長公記”の作者・太田牛一は、将軍義輝を討ち取ったのは、三好長慶の養子義継と松永久秀の嫡子久通であるのに久秀としました。

 別のところで、討ったのはすでに死去していた長慶としていて、正確な情報をつかんでいなかったために混同したようです。

 また、”常由紀談”の作者・湯浅常山は、朱子学を重んじる立場から久秀を反面教師として、幕藩体制下の家格秩序を守ることを説こうとしました。

 ”日本外史”の作者頼山陽は、久秀の三悪と、信長が欲した平蜘蛛の釜をうちこわし自害する最期を記しました。

 久秀に限らず、戦国武将は、江戸時代に創作されたイメージが流布していることの方が多いです。

 21世紀になってから、細川氏や三好氏を中心に畿内の政治史を叙述する視点が出されました。

 足利氏・細川氏・畠山氏・六角氏・三好氏の本格的な研究が進み、その成果が研究者同士で共有され始めました。

 松永久秀も、三好氏研究や戦国期の大和研究から独立し、専論が出されるようになり、その実像がわかるようになってきました。

 本書では、こうした研究成果を踏まえて、松永久秀を戦国時代の政治や社会状況の中で考えています。

 その際、下剋上とは何かということと、織田信長英雄史観を超えて実像に迫るということの、二つの視点に留意しています。

 室町時代の身分秩序の頂点に位置したのは、天皇を除くと足利将軍家でした。

 足利氏が、公家・武家・寺家の権門、および中央と地方に君臨していました。

 戦国時代に実力のある者が上の者を否定するといっても、それは鎌倉幕府草創以来の身分秩序の改変であり、言うは易く行うは難しでした。

 畿内近国でも織田信長は、主君の斯波義銀足利義昭を殺害していません。

 その結果、義昭の身分秩序や家格秩序の改変は、戦国時代といえども、決して容易ではありませんでした。

 現在、織田信長豊臣秀吉徳川家康は三英傑として誰もが知る存在であり、中でも信長の人気は非常に高いです。

 頼山陽は信長の行動を非常事であるからやむを得ない処置であったと擁護し、勤皇の視点を持ち込みました。

 戦後、信長を勤皇の視点から語ることはなくなりましたが、革命児としての位置づけは変わっていません。

 松永久秀は、三好長慶に登用され、その家臣として頭角を現わしました。

 そして、三好氏の下で大和一国を支配するようになりました。

 そうした過程で、下剋上と呼ばれている久秀の行動の実態をとらえていきます。

 また、足利義昭織田信長の上洛に際し味方したのに離反している点は、信長英雄史観にとらわれずに、むしろ義昭幕府や織田政権の矛盾として、その要因を探っています。

はじめに−“戦国の梟雄”が戦ったものはなにか/第1章 三好長慶による登用/第2章 幕府秩序との葛藤/第3章 大和の領国化/第4章 幕府秩序との対決/第5章 足利義昭織田信長との同盟/第6章 筒井順慶との対立